わたしは何者にもなりたくない

『何者かになる』ことを目標としている若者は多い。かれらの『何者』が何を指すのか、その定義はさまざまであるにしろ、つまるところみんな有名になりたいらしい。InstagramTwitter(わたしはこのサービスをXと呼ぶことを、ずっと拒否している)のフォロワーの数にしろ、YouTubeのチャンネル登録者数にしろ、これが多ければ多いほど『何者』であるみたいなところは、多かれ少なかれあるとおもう。『何者かになる』というフレーズが流行りだしたのは最近だけれど、要するにこれは『成功したい』を現代なりにエモく表現しただけのフレーズで、『成功したい』という欲求それ自体は新しくもなんともない、たぶん。

かつてはわたしも、心の奥底で『何者かになる』ことを目指していた。クリエイターとして。人生のなかで、なにかをつくっていないと落ち着かない人間として。自分の制作物が評価されること。それを、自分はつくらない人間たちよりも突出した、秀でた存在であるという主張の証拠とすること。茫漠と、有名にさえなればお金がいっぱいはいってきて、とにかくそのときあった問題のすべてが解決して、なんとなく幸せになれるんだと思っていた。

クリエイターとして、界隈でほんのちょっとだけ名の通る地位を確保したあたりから、「なんか違うな」とおもいはじめた。ちっぽけな名声はべつに、それでいて確実に、自分を幸せにはしなかった。どちらかというと居心地のわるさを提供してきただけだった。『何者かになる』ということは、わたしにとって、『自分ではないなにかになってしまう』ことだった。いつまでもどこまでも素の、ちょっと抜けていてとても人様に自慢できるような生活はしておらず、がさつで、頭が良いんだかわるいんだかわからない、それでも愛嬌があってキュート(だとおもっている)なわたしが好きなわたしは、『何者』と書かれたプラスチックの箱のなかにきれいに包装されて、これまたプラスチックの容れ物に嵌められて手も足もでなくなっている海外のアクションフィギュアみたいなわたしを、わたしだとはおもえなかった。わたしではない何かが名声を集めている様子は、わたしにとって面白いことではなかった。

やーめた、とおもった。わたしは、何者にもなりたくないな、とおもった。

有名になりたいわけではない。わたしがこの世界で何かしらの偉業を達成できるとも思っていない。そのへんは、やりたいひと、できるひとがやればいい。わたしはただ、わたしとして、ただわたしの人生を生きることで、わたしの一歩一歩が水面に起こす波紋がわたしではない誰かの足元に到達したときに、その誰かがほんのすこし、「あれ」と思ってくれたらいいんだとわかった。「あれ」という気づきを、「あれ?」という疑問を抱いて、その誰かなりになにか考えて、その誰かの人生がちょっとよくなるようなことを、ただ繰り返していけたらいいとおもった。

わたしは何者にもなりたくない。ただ、波紋を起こし続けるちいさなしずくでありたいとねがった。

そうするために、雫になった。雫として、わたしの今の、過去の、未来の一歩を、インターネットという大海みたいなところに落としつづけていようとおもった。