かみさまについて

わたしは特定の宗教団体に所属している人間ではないが、かみさまについては、わりとはっきりとしたじぶんの意見を持っている。とはいえ、「神の存在を信じますか」といわれて、大きく首を縦に振ることはしない。「神様なんていないよね」といわれて、横に振るわけでもない。たぶん、無神論者ではない。

かみさまが存在することを、ねがっている、ただしかなり受動的なかたちで。たぶんこれくらいの表現がただしい。

かみさまの実体がなんなのか、とか、どこのだれなのか、とか、いかように信奉することがただしいのか、とか、そういうことに興味はない。ただ、いたほうがいいんじゃないかとおもっている。いたほうがみんなのためになるし、人間はいまよりすこしだけしあわせになれるとおもう。し、かみさまについて喧々諤々の論争を真顔で繰り広げる学者たちのはなしを読みかじるのは、純粋にたのしい。ああでもない、こうでもないと、かれらはそれぞれ自分なりのかみさまを探した(あるいはいまも探しつづけている)。答えに到達することはない。なぜなら、かみさまがいるのかいないのか、人間には一生をかけてもただしいことはわからないから。でもかれらは諦めない。なぜなら、自分なりのかみさまを探すことが、きっと生きるということだから。

『かみさま』が、『生きる意味』でも『生まれてきた意味』でも『生き方』でもなんでもいいんだとおもう。わたし個人が『かみさま』という表現を好むだけで。人間は生まれてから死ぬまで、なにかを探している生き物のようにおもう。探すために考える。どうやって探せばいいか、どこにいる(またはある)のか、どうすればたどりつけるのか。考えるために学ぶ。哲学を、神学を、歴史を、言葉を。学ぶために生きる。この人生を。わたしはさいきん、人間とはそういう生き物だとおもっている。

わたしもまた、自分なりにかみさまを探しつづけている。本のなかに。関わるひとびとの言葉のなかに。自分のなかに。ゴールはないとわかっている。死ぬまでに、「あ、わかった、じゃあもういいや」とおもうことが絶対にないことはわかっていて、それでも探しつづけている。死んだらわかるとも思っていないのに、ずっとわからないとわかっていて、わたしは探しつづける。自分なりのかみさまを。そしてわたし自身が、その自分なりのかみさまを表現した存在であれるよう、努力しつづける。

わたしにとって、生きるということはそういうことなのだ。