愛という名の祈り

わたしは長らく、親からの愛情というものを理解できずにいた人間だった。わたしの思い描いた(あるいは、社会が『これが親の愛というものである』と定義した)親が子に提供するべき無償の愛というものは、わたしの人生のなかのどこにもなかった。親は期待のもと、わたしにいろいろなものを求めたし、求めるものが返せない自分を不甲斐なくおもったわたしは、自分が自分を愛せない原因を、親に押し付けた。あなたたちが無理難題を押し付けるから、わたしはわたしのことを愛せない。転じて、あなたたちがわたしを愛していないから、わたしもわたしを愛することができないのだ、どうしてくれるのだと。

長いことそんな具合だった。30歳になるまで、わたしはずっと親のことを憎んで、責めてきた。特に母親のことを。5年ほど縁を切っていたこともあった。毒親呼ばわりしたこともあった。今ではそれを、悔いている。母親がわたしのことを愛していなかったことなど、きっと生まれてからただの一度もなかった。わたしはただ、自分の人生が思い通りにいかないからといって、その原因をなにかひとつに集約したくて、親という存在をターゲットにしたのだとおもう。

無償の愛情など、この世には存在しない。血がつながっていようが、いまいが、人はみな人に何かしらの期待をするし、失望もするし、でも、それでいて愛している。期待をすること、失望をすることは、愛していないということの裏返しではない。愛しているということに見返りを求めること、それは愛していないということではない。人間の愛はいびつだ。どこまでいっても不完全で、どこまでいっても完璧ではない。でも、だからといって愛そのものが存在しないということには、ならない。

恋人を抱きしめながら、そんなことを考えることがある。何人か、いろいろな男とこういう関係になったことはあるけれど、恋人を抱きしめていると、「わたしはこの人間を愛している」と思う。愛していると思うと同時に、わたしの抱くその愛はいびつで、不完全で、時として彼を傷つけることになるかもしれないことをしっかりと承知しているから、どうしたものかと思う。わたしが親を勘違いしたように、わたしは彼に自分の愛がどれほどまでに純粋なものであるか、誠実な動機から生まれたものであるかを、ただしく伝えられる自信はない。そんなことができるとも思っていない。

でも、努力はする。親がわたしに幸せであってほしいと願ったように、わたしは恋人が、できる限り幸せであるようにと、祈る。